三十いくつとこころの子ども

思ったことや見たもの、わりとそのまま

良い子ぶりの習字

カメラロールを整理していると、書の写真が出てきた。
小学生の時に通っていた習字の展覧会に出したもので、当時の自分の背丈くらいある半紙に大筆で書いたものだ。本来は大人の人が書くものだったけど、小学六年生という節目だったので書かせてもらったような気がする。

何を書くかは自分が決める。何を書いてもいい。小学生という年頃ももちろんながら、当時の自分は優等生であることが自分のアイデンティティだと思っていた。小学校でよしとされることを自ら進んで引き受け(児童会長だとか、発表だとか、委員長だとか)、よしとされる価値観を是としていた(自由研究で環境問題に取り組むだとか、自発的に公園のごみ拾いをするだとか)。それで大人が褒めてくれるから。

子ども一人が寝られるくらいの大きさの半紙に、力みながら緊張とともに書いたのは「世界平和」の四文字だった。
全体のバランスを取るのが苦手で、「界」の字が妙にデカい、和の字もちょっと縦に長い、アンバランスな世界平和だ。それでも、当時の自分にとってはこの選択が自分らしく、これしかないと思っていた。

 

それが自分の心からの願いだったのか、大人の心をつかむと思ったからなのかはわからない。

中学生にもなって少しずつ心がスれていくと、「小学生の時の習字、"世界平和"って書いててんけど笑」なんて自虐を含んだネタに友だちと話したこともある。

 

世界平和をネタにできるほど世界が平和だったのか、異国の情勢をろくにしらない無関心だったのか、今や覚えていない。完全な平和とは言い難いかもしれないけど、きっと両方だったのだろう。
黒煙に空襲警報のサイレン。人々の不安と嘆きが流れるテレビ。
メディアで大々的には聞かないものの、インターネットで囁かれる不穏な影の存在を思えば、今の方が確実によくないことは確かだ。

真偽もわからなければ、SNSで情報を得るには歴史や文化背景への理解も足りない。人間は感情に突き動かされるまま強い言葉と不安を振りかざす。その拡散されている情報は、はたして中立なものか。人間が扱う情報も、アルゴリズムが流してくる情報も、信用に足るものかわからない。

戦争は反対という信念だけは確かで、けれど誰も戦争をしたくてしているわけではないだろう。ごく一部そういう人間がいるのかもしれないけれど。知らないものとわかりあえないものに人間は攻撃的になる。攻撃に加担せざるを得なくなる。加担するつもりがなくても守らざるをえない状況でもある。

各国や民族の背景を、歴史を、国ごとの価値観を、生活と労働の片手間で本当の意味で理解することは難しい。

ただ一人の人間としてできることは少なく、なるようにしかならないのではないかという恐れと諦めのようなものがある。

SNSでは政治や国際問題に棘を刺すポストと、同世代の子持ちの友だちの平和な日常風景が立て続けに並ぶ。つかまり立ちができるようになった子。おいしそうにうどんを食べている子。幼稚園のお遊戯会の写真。
最近、うちの妹の結婚が決まった。新しい家庭で、新しい人生を送る妹が、能う限り幸せでありつづけることを願ってやまない。

 

世界平和の書は、湿気の多い部屋の隅でカビてしまい処分した。カメラロールの写真は、処分する前に記録として残していたものだ。
今なら心からの願いごととして、捨てずにおいておくだろうに。

なぜこの言葉が、大人が子どもに教えるうえで良しとされるか。その言葉を持ち出した子どもが、先生や親、親戚の間で安穏に誉めそやされている姿を、綺麗ごとだと真面目になにしてんのと冷笑する人もいるだろう。大人も、子どもも(実際いた)。

でも、強制力を持って書かされるのでもなく、哀切を想起させるものでもない、ほほえましい光景である時代が、どの国にも取り戻され、そしてこの国にも続くことを今改めて、切に願っている。
他者の評価はいらない、紛うことなく、自分の心からの願いとして。

 



 

日曜夜の症候群

日曜日の夕方。サザエさん症候群というワードがある。

サザエさんが始まってしまえば、日曜日の終わりを感じる。平日、また頑張る日が5日も続くという憂鬱が顔を出す。休日、終わらないでくれと思う現象は、自分一人だけではない。国民的アニメを前に、日本人の大多数があるあるとして感じられる現象。

 

どちらかというと自分は、そのサザエさんに該当するのが大河ドラマだ。

日曜夜、8時45分。その1~2分手前で大河ドラマの本編が終わり、次回予告が流れ、歴史紀行のコーナーが始まる。その回にまつわる人物や舞台にまつわる場所の紹介。

今作の今の時期は愛知県のゆかりの場所を紹介されている。今日は清州城。物心ついたか否かも怪しい幼少のころは愛知に住んでいたので、母が「ここ行ったなあ~」と呟いては「私は知らんなあ…」というやりとりを続けている。記憶力のいい子だと3歳くらいから記憶があるという子もいるけれど、私はほとんどのことを覚えていない。

 

同世代の友達は今、3歳前後の子を持つひとが多い。たまに一緒に遊んでもらう。
その子らが人見知りするかしないか、自分の足で移動することもできないまま、はすはすと息をしていたくらいの小さきいのちのころからは考えられないくらい、自分で歩き、発見や疑問、自分の気持ちを口にする。たまにしか会わない私になついてくれる子もいて、めいっぱいおしゃべりしたがっているのが見て取れてかわいい。年始、友だちとその子どもと遊んで、でろでろになったばかりだった。

でもたぶんだけど、その子らが大きくなるともう覚えてないんだろうなとも思う。
それに対して淋しいなどのネガティブな気持ちは特になくて、傷つけたり嫌な記憶を植え付けてしまっていないのであれば、それで十分だと思う。

大きくなれよ、私はもう大きくなって、きみとおなじくらいの歳だった時のことは忘れてしまったよ。

 

というような感傷にふけりながら、記憶にないながら私も行ったらしい清州の映像を眺めていた。BGMの楽器の演奏者のテロップを見ながら、その音楽の素朴な哀愁を感じるにつけ、日曜日がおわることを実感する。

あー、学校行きたくないなぁ。

頭の中に浮かんだ独り言が、急に中高生の時に返っていて惑った。今、社会人やで。明日行くのは会社やで。

中学とか高校くらいの時は風林火山だとか天地人とかだったかな。その時の体感が、戦国大河つながりでふっと蘇ったのかもしれない。

大河の紀行を見て、明日からの日々を憂鬱に思う日々は、ずっと変わっていない。

きりはなす を おぼえた!

年が明けて、休みが明けて、仕事がはじまった。

仕事始めとなる初週は、ボーナスタイムのような3連休を前に金曜日で有給を取っていた。インドの推しが主演の映画公開初日。引退作となる今回の作品を、淋しさと惜しむ気持ちを表層の下に忍ばせながらも楽しみにしていた。名古屋の劇場で見るつもりだったので、遠征でどこに行くかも浮かれて調べながら。

初日前日の朝起きると、公開延期が発表されていた。
急な発表に呆然としつつ、仕事で接するインドの人のギリギリ感を思い出してはまあインドやしな、そういうこともあるよなと偏見を滲ませながら、バスとホテルを取り消した。当日の朝発表でなくてよかった。映画がなくなっても、ただ名古屋に遊びに行くかはじわじわと悩んでいたけど。平日に何の予定もない遠征をすることなんてないし。

現時点でも、いつ上映されるのかは決まっていない。別の推し活と被らないことを祈るのみだ。

 

コロナ禍で、エンタメ作品への急なキャンセルに耐性がついたのか、大人になったのか。
以前はもっと、大ごとに、感情的に、なんてことないものだと言い聞かせながらも折に触れては悲劇的に当時を振り返るみたいなところがあって(このブログ自体がそんなようなものかもしれないが)、それに比べるとまあ穏やかなものだと思う。

 

個人的に大打撃を負ったのは、2020年のEXILE、京セラドーム公演。

コロナ感染者が日本にも発生して、まだ数人程度の時期。
突然政府からライブ・コンサートの実施自粛要請が出された。
その数時間後、本番の3~4時間前で中止連絡。当時仕事中にさぼり見たYahooニュースのTOPでそれを知った。急いでお手洗いに駆け込んで公式の報を見た。

ツアー最終日だった。その日公演の予定されていたEXILEPerfumeが、急な自粛要請の被害者だった。

前日の公演は普通に実施されていて、両日連番の友達とも「明日あそこの席か~」と翌日の座席を確認していた。「じゃあ明日ね~」つって別れた。翌日、なかった。

当日は仕事の後にドームに向かうつもりで、仕事のカバンにフラッグ(ライブで振る)とライトを入れていた。出番がなかった。仕事が終わってカバンを手に持った時、カバンから覗き見えた旗の、赤と金の華々しい布のむなしさと言ったら。

ATSUSHIが書面のみでEXILEを卒業したのはその数か月後だった。
中止になったあの最終日は二度と戻らないし、なにかはわからないが決定的に形が変わってしまった喪失感。

(色々あって、復活と休止を経て彼はグループへ戻ってきた。2020年以前と同じものにはなり得ないと思うけど、長く続くものは変化もし続けるしな…とも今は思う)

 

自粛という名前はついているものの、集客も大きく、また知名度のあるアーティストが抱える責任は大きい。相手は得体も知れず、死者が増え続ける謎の病だ。公演自粛は、社会的に正しかったのかもしれない。

でも、昨日までやってたじゃん、何が違うんだよ、1日くらい猶予くれよと思った記憶もある。社会の建前と個人の感情の区別もつけられず、ぐちゃぐちゃになっていた。

 

さて、それから6年。いや6年か。時の流れ早すぎてえぐいな。20代後半だった私は30代前半を折り返している。

インドの推しは、泣いても笑っても今回が最終作だ。彼が引退した先で、為したいことを為せて、もしまたスクリーンに戻ってくる可能性を願っているけれど、一旦俳優としての彼を見るのは、昨日公開されるはずだった映画が最後だ。

いまもどうなるのかはわからない。きっと日本で公開ができないというようなことになってしまっても、私はおそらく感情的に嘆き悲しまずに飲み下すのだと思う。

以前と違って、推しと自分を分ける境界線ができたと思うから。推しの姿を見られないという危機感のような執着や依存は、ある程度手放せるようになった(最推しにたいしてはこの限りではないが)。

推しのバッドトピックは、自分の感情を必要以上に侵食しなくなった(はずだ)。

たぶんね。まだ一輪車で支えに掴まらず10mくらい走れたくらいの感覚なので、安定走行とは言いづらいけれど。

 

少し前の自分なら「もう好きじゃないのに、ただ格好つけてるんじゃないの」とか言い出しそうだけど、そういうことではないのだ。

日本での改めての上映決定の報が聞けることを、そしてそれがダメでもいつかどこかで見られる機会を祈りながら、ただ予定が空になった4連休を折り返そうとしている。

2025年の振り返り

1月も5日目に突入した大遅刻ぶりだけど、何事にも遅すぎるということはない、やらないよりやった方がいい、という先人たちの言葉を胸に、2025年を振り返ろうと思う。

(と書き出してから色々直しているうちに6日になってしまった)

記録を残さなかった日のことは簡単に忘れてしまうなあというのが怖くなり、1カ月で一番印象に残った出来事を書いていこうと思う。仕事以外の記憶がない月もあるけれど、それもそういう月だったということで。

 

1月

福岡への出張があった。前日に仕事を終えてから前乗りで福岡に向かったまではよかったけど、ありえんほどの暴風。ホテルが海沿いだったのもあってか、太刀打ちできない。
最寄りのバス停を降りてからホテルまで徒歩30秒とかなのに、命の危機を感じるほどの向かい風で一向に前に進めない。5分はかかった。一昔前のバラエティにあった巨大扇風機に立ち向かう芸人の気持ちだった。

翌日、上司(めっちゃ偉い人)からおすすめの角打ちのお店と日本酒を教えてもらって、ちょっと早上がりして角打ちに寄って帰阪した。一人で未開拓のお店に入るのは苦手だったけど、お酒はもちろん料理も居心地もよくて、お店の人とも隣の人とも打ち解けて、「うわ~~~大阪帰りたくないぃ」を連呼しながら新幹線の終電ギリまで居座って帰った。家族と親族へのお土産を2分で選んだ。

 

2月
経緯は省くが、色々あって人生で初めて推しになった人と東京観光をした。
好きになったのは22年前。私はまだランドセルを背負っていた。当時はファンだとか好きな人的な言い方で、推しという概念が世間的になかった頃だ。

好きだったバンドのベースの人。ブログやラジオでのトークが好きで、演奏のことはわからなかったけど、その人となりが好きだった。跳ぶようにベースを弾く姿も好きだった。

自分が中学生になり、初めてそのバンドのライブに行く許可が下りた。やっと推しに会える!と喜び勇んで汗ばむ手で受話器を握りチケットを取った(当時はぴあに電話をかけていた頃だ)その夜、推しの脱退が発表された。
それきり、推しの動向は追っていたものの、生身のその人にあったことはなかった。喋りとブログ。それだけ追って22年。


推しの運転で助手席に座って会話したり、推しが運転しながら流す音源を聴いたり。降り立った場所を一緒に散策してもらったり。推しに対しての恋愛感情があるわけでは全くないが、こんな疑似デートのような機会は二度とないだろうなと思った。

余談だが、彼との観光散策中、当時のバンドのギターからLINEが来るというミラクルもあった。全部に祝福されとる、とおもった。


生きてるとこんないいことがあるんだなあ、と夢見心地な一方で、当時彼を好きだった気持ちと大人になって積み上げた価値観は異なることにも気が付いた。好きなところは変わらず好きだけど、大人になって、時代も変わって、好きな人の全てを肯定することはできないなと思った。
そんな考え方をするようになったところに、自分が大人になったのを感じたし、その考えにたどりついた自分の生き方は嫌いではないと思った。

多少の共感できないところには目を瞑りながら、今もゆるっと彼を推している。

 

3月

記憶がない。2~3人分の仕事ができる上司が一人でやっていた仕事を引き受けている期間で、かなり残業していた。
現職の前まではどの職場も残業代が出ないカスの会社だったので、残業代がちゃんと出るだけで人間として存在している気になっていた。見たことない手取りだった。手取り額だけこの時に戻りたい。

 

4月

記憶がない。
グループ会社からの出向者を短期で受け入れることになり、仕事を教えていたものの、自分より20近く年上の人が1から10全部説明と指示がないと動けない人(×2名)だった。
その人がミスをすると、指示不足のアナタが悪いですみたいな感じで当たられてしまい、今思うと理不尽だった。理不尽だと肚落ちする前に業務量だとかプレッシャーだとかで色々メンタルが限界で、職場で泣いた覚えがある。
三十路がこんなことで何泣いてるんやろと思いながらも、限界な時はそんなことで涙のブレーキはかからないのだった。

 

5月

酒は強い方だという自負が崩れ落ちた。
友だちと公園飲みと称して缶の酒を2,3本飲んだ後、飲み足りんよなと近くの王将に入った。記憶を失い、いつ会計したのかどうやって帰りの電車に乗ったのかも覚えていないまま、目を覚ますと駅の便器に顔をつっこんでいてこわかった。

この月の後半で、仕事ができすぎる上司が復職した。それにより、残業がなくなった。自由を得た代わりに、手取りがいっきに寂しくなった。なのに、頑張っているからご褒美とかいうザルの金銭感覚は健在なのだった。

てか、王将の酒ってバリつよない? ここには記さないけど、4カ月後にもそれを体感することになる。

 

6月

福岡で推しのライブ。ライブは土曜のみだったので、せっかくだから日曜に九州のどこかに行きたい!!と思った結果、長崎ハウステンボスに。EXILEの推しが長崎出身で、少し前に推しがバラエティでハウステンボスでロケをしていたのだった。
ミッフィーエリアの開業から二日目だったので、激混みかもな~と思ったら全然過ごしやすすぎてびっくりした。

イルミネーションの時間まではいられなかったけど、街並みや空気感だけで十分元が取れたし、観覧車にも乗った。ひとりで。近年のソロ活浸透具合を見るに、まあ恥ずかしいことでもないっしょ、と思って観覧車に進んだら、後ろに並んでいた少年の目が明らかに珍しいものを見る目だった。少年、観覧車に乗るのは、家族かデートだけじゃないんだぜ。

ハウステンボスのオランダチックな街並みと、風車に花畑、そして海が見渡せる景色は、雨が強まる中でも絶景だった。
あと、ミッフィーちゃんにメロメロになった。(小雨でパレード中止だったのが心残り。代わりのグリーティング撮影会がめちゃめちゃかわいかった)

 

7月

月末、推しの恐喝容疑による書類送検報道。
その日は仕事の雑用で、職場の他フロアにサーキュレーターを設置するというミッションがあった。サーキュレーターを運搬するべくエレベーターを待っている間、スマホをチラ見して知った。そこから露骨に動揺して、頭まっしろでサーキュレーターを組み立てて、説明書の文字もパーツも見えてるのに頭に入ってこない…という絵にかいたような魂の抜け具合だった。

正直仕事が手につかなかったので早退しようかと思ったけど(ありがたいことに急に有給をとっても許される職場なので)、上司に推しを公言しているだけに憚られた。
後日、上司からちゃっかり心配されていて、普通に休んだ方が会社の方のためだったかもと反省した。

 

8月
趣味のイベントに向けた締め切りに追われていた。いつも作業から締め切りまで2-3カ月あるのに、なぜか実作業2-3日でやり遂げざるを得ない状況と実績を作ってしまい、先が思いやられた。

このころから紙の日記をつけはじめる。いつも日記は長続きしないけど、こころの声を垂れ流し状態にして書くと案外続いた。
紙の日記はとにかく自由で、普通のA5ノートにただ書いていくだけ。フォーマットも、書かないといけない事項とかも設けず、とりあえずなんか書くだけでOKというゆるゆるの形式がよかったのかもしれない。

これまで「こう書くべき」「こうあるべき」にとらわれすぎて、それが達成できない日が一定数つづくと諦めてしまう…というパターンがあることにようやく気が付けた瞬間でもある。
これを機に意識できたのは、とにかく自分が楽な形で続けられる最低限のハードルに設定することと、そのための動線を整えておくという二つだ。(日記なら、ペンは目につくところに出しておくとか)

できる人はこういうことも無自覚か、もっと人生の早い段階で会得しているんだろうなあと思う。それはそれとして、「書き出す」という行為がある程度日常に定着したのは、この一年で大きな出来事だったと思う。

 

9月

PCを買い替えた。そこから先は、このブログにログがある。週1ペースだけれども。
紙の日記、このブログ、あと今年読んだ本の好きだった文章を転記するという読書記録をつけつつ、趣味の創作をしつつ、再燃した推しジャンルの過去作を見返しつつ…と趣味方面に多忙な生活を送っていた。今まで忙しいと思っていたのはなんだったのか?

 

この月は推しの武道館公演のため東京遠征。
推しを同じくするフォロワーと、翌日ディズニーシーへ行った。ディズニーなんて、それこそ小学生ぶりに行った。舞浜から電車に乗ったときはハリボテっぽい裏側だとか消火栓だとかいろいろな大人の事情が目について、子どものようなはしゃぎ方ができない自分に嫌気がさしていたが、ディズニーシーのデカい地球儀に出迎えられ、耳カチューシャとミッキー型のグラサン(ディズニーの外で使える場所がない)を買ってからというもの、ただただ子ども心に帰った。ラプンツェルファストパスに課金したときだけは大人を振りかざしたけど。

そんなわけで、ピーターパンのアトラクションの最後の台詞が刺さらないわけがなかった。

「いつまでも子どものままでいてね!」

ストレートに泣いた。ヒュ、と息が止まって、喉と頭の奥にこみ上げてきた。
アトラクションを降りた後も、「あのセリフがやばくて、『いつまでも子どもの…』」とフォロワーに伝えようとした言葉がもう感極まって言葉が詰まってだめだった。

このフォロワーとは8年近くの付き合いだけど、これまで己が泣いた姿を見せたのは父親が死んで1か月後に参戦したEXILE THE SECONDのホールライブで、1曲目の瞬間エターナルを聴いたときだけだ。(知らんがな)

いつまでも子どものままでいてね、その言葉に泣いてしまうのは、子どものままでいられなくなってしまった大人の自分を強く自覚したからのような気もするし、もう戻らない子どもだったころに泣いているのかもしれない。心持だけはずっと子どものくせに。

 

10月

このブログの通りで、ジョギングを始めてそれに夢中になった。
少しずつ距離が伸ばせるのが楽しい。本を読むのも楽しい。読書記録をつけるのも楽しい。日記も楽しい。見れなかった映像系コンテンツも、なんか見れる。ブログは週1~10日ペースだったけど、自分を満たしつつ生きている証も残しているような気持ちで、ささやかなことにも幸せを感じるようになった。これだけ見ると、"氣"とかにハマる人のようだがそんなことはない。今までがドーパミン中心すぎただけで。多分。

 

出来事として一番印象に残ったのは推しのスタジアムライブだけど、それはブログで長々と書いたので割愛。最近そのライブの円盤が出て、構成が神だった(語彙がないオタクのヤツ)。

 

11月

20年来の推しと初めて1対1で話せた。

2月で東京観光をしてくれた推しと同じグループで活動をしていたボーカルの人で、すでに10年以上前にバンドを解散して現役を退き、裏方に回っていた。
今回久々に表に出る機会があると聞いて、名古屋まで遠征した。節制したい時期だったけど、もうこんな機会、二度とないかもしれないと思って。
歌声を聴くだけで、ともすれば本番前の音響チェックの段階からぼろ泣きだった。
大好きだった。青春だった。まだ自我というものが不安定で、中学の頃のいじめだとか、就活が決まらないだとか、人生一生どん底で暗闇だと思っていた時期、ずっと聴いて支えにしていた柔らかく優しく、けれど力強い歌声が、自分の足で歩くように背中を押してくれる歌が、もう一度目の前で聴けるとは。

 

終焉後、物販。グループが現役のころ、物販にご本人がいることはなかったので、文字通り頭が真っ白なまま話しかけた。メディアの向こうのひと、ステージの向こうの人だとずっと思っていたので、話せることが信じられなかった。

(それまでに武道館やドームに立った推しとのミーグリなどは多々経験しているが、あまりにも特別すぎて)

人生のお礼。今日歌ってくださってありがとうございますという感謝。今日の選曲のテーマが自分にも重なって涙が止まらなったこと。叶うなら大阪でもまた歌ってくださいということ(そのグループはもともと大阪で結成されていた)。一度口を開くと、厚かましいお願いまでなんぼでもでてくるなと思った。

挙動不審な早口オタクの上ずったしゃべりを、彼女は調子を合わせながら聴いてくれた。メディアで見ていたころよりも歳を重ねたお顔になっていて、けれどメディアで見ていたころよりも力強さと、包容力と、安定した芯のようなものを感じた。
ご本人もMCで大人になって当時より楽しいとおっしゃっていたし、傍から見ても素敵な年の重ね方をしているお顔つきだと思った。

私と彼女の歳は約一回り違う。今の私は、彼女が表舞台を退いた時と同じくらいの歳だ。
干支がもう1周した頃、彼女のような佇まいの人間になっていたいと思う。

 

12月

ただただ掃除をした休日だった。いつも年末の大掃除は、部屋の片づけを中途半端に散らしたまま、掃除までいかず、ごみの日も終わり、半端にゴミが積みあがった散らかった部屋で過ごすことがほとんどだった。ここ数年に関しては、連休だとここぞとばかりに映画やら遊ぶ予定やらを詰めすぎて、家のことをまったくやっていなかった。カスの実家暮らしだ。そらこどおばとか言われてもしゃあない。

今年は12月の第一週から部屋の断捨離、親父の遺品の断捨離なんかを地道に続けた。

年末の連休は、20年くらい手付かずのベランダ汚れを掃除したり、とにかく積年のツケを清算しようと必死だった。歴代の年末の中で、ようやくまともな掃除ができたと思う。

積年のツケを地道に掃除して思ったのは、日々の簡単な掃除を面倒くさがらずにやっておくべきということだった。塵も積もればヤマとなるし、ベランダのベージュの床は砂埃が踏み固められて真っ黒になる。
普段から掃き掃除をしろ。今年ならやれる気がする。

2月から始めた読書も、77冊くらいまでたどり着いて、読書習慣もまだ続いている。紙の日記も。

 

ちなみに10月半ばから続いているジョギングは、年末くらいからじわじわと膝を痛めてしまい休息している。走っている人たちを横目に、早く走りたいという気持ちと、持久力が失われていくんじゃないか、減った脂肪が正月でリバウンドしたんじゃないかと焦りが消えない。微妙に出鼻をくじかれながら、今年が始まる。

去年までとは違う一年になりそうな気もしていて、それが参考書を買う前にありがちな生まれ変われそうな気持ちだけで終わらないようにしたい。

「これからも正しい選択をし続けてください」

ひたすら断捨離をしていた。12月頭の土日から黙々と。
ドーパミンの勢いに流されるままグッズやら目についたものやらを買い、結果もったいぶって使わずに仕舞い込んだり、日常になじまずたいして使わないままそれなりの時が経っていたというものがたくさんある。

断捨離の最中、「大片付け、それは過去の傷と向き合い続ける作業」とだけツイートしていた。未来の自分の落胆と、物が少ない部屋にしたいという理想を秤にかけての選択の連続。優柔不断には酷な話だと思う。

 

なにせ30年近く住んでいる実家なので、とにかく物と思い出が多い。

推しのグッズ系の次に捨てがたいのは、積年の想い出系。成績表やテストの結果なんかは、これを機に捨てた。学校のテストの点がよかったところで、社会人としての能力は平均点に達しているかも微妙なラインなので。過去の栄光にすがっても仕方ない。
逆に文集系とか、当時の考えが残っているものは置いとこうと思った。

 

色画用紙に張られたプリントつづり。一枚一枚糊で上からプリントを張っていたことにすら懐かしんでいると、一枚の色画用紙が出てきた。淡い、肌の色のようなオレンジ。
一昔前の家庭用プリンターで印刷したと思しき画質のカラー写真と、メッセージが書かれた紙が貼られていた。中二の担任が、クラスが解散となる学年末に、生徒一人一人にむけて一言書いてくれたものだった。

全体メッセージはコピーだったが、生徒への個別メッセージが付箋に記されていた。私の受け取った紙には、こう書かれていた。
「テストの振り返りや日報で、周りの人とは違う自分の意見を書いてくれていました。」「これからも正しい選択をし続けてください。」

 

このメッセージにも、当時日報に何を書いていたかも、よく覚えていない。
けれど、中学二年生は自分にとっても厄介な年で、露骨にいじめを受けていた時期でもある。
空気が読めなくて浮いていた時期だった。ネットの言葉でいうとマジレス蛮族的だったと思う。校則や社会の規則、倫理が全てだと思い込んでいて、それを守らない人が信じられなかった。けど、学校にはそれを破ることが当たり前である人が大勢いた。

スカートは折ってはいけない。自転車通学をしてはいけない。学校の中でマフラーは外さなければならない。信号は守らなければならない。化粧をしてはならない。授業中にしゃべってはいけない。授業中に寝てはいけない。

けれども学校の大多数はこれらと反対のことをする人たちがほとんどで、同じようなタイプの数人の友達と一緒に浮いていた。数人の友達もスカートはミニになりすぎない程度に折ったりしていて、人当たりもよく、そういう人たちは浮いていなかった。スカートの長さが陰キャかハイキャ(陽キャのことはそう呼ばれていた)の基準だった。

陽キャのことは嫌いだった。喋りすぎ、暴れすぎで、一向に授業が進まない学校だった。体育の後の制汗剤と香水の匂いが、エアコンの暖気と混ざってきもちわるかったし、授業中にお菓子食べてるのもありえなかった。

きっと週報は、そうした人たちへの静かな憤りを書いていたんじゃないだろうか。

 

今となっては、私自身も極端だったと思う。

先生、私、正しい選択し続けてますかね。できてますかね。

当時は規則や規範を守ることが正しさだと思っていたけど、今なら正しいって無数の考え方があって、正しいという定義を明らかにしないと、それが正解かどうかわからないような世界にいる。それが令和という時代ゆえのものなのか、自分が大人になっただけなのかわからない。

 

前回の信号を守る記事のように、信号無視を覚えたり、長いものに巻かれるようになったり、中間やグラデーションを意識するようになった。人の数だけ「私にとってはこれが正解」がある。人の自由と生命を脅かすものでない限りは、その人の正しいはその個々人のものであって、私の一存で干渉できるものでもないと思う。その人がそれでいいならそれが正解だと思っている。私が結婚せず実家で暮らし続けているように。(これが正しいかどうかも悩んでいる最中ではある)

 

正しいってなんだろうなあ。今までなんの疑問もなく受け入れていた概念が、最近急にひとつひとつ引っかかるようになった。世間より遅いながら、大人の階段をのぼっているのか、はたして。

 

それでもその先生は、芯の強いひとで、私のいじめ問題にも大ごとにしないながらも見えないところでたしかに支えてくれた先生だった。きっと適当に当たり障りのないことを書いたわけではないのだろうと勝手に信じている。

 

前年である中一の時、いじめを受けはじめる兆候があって、学校の作文にその状況を書いた。こんな日が続くなら不登校になりたいと思ってしまう、という感じの、婉曲なSOSのつもりだった。担任に気づいてほしかったのだと思う。直接チクる勇気はなかった。
けど実際は該当箇所だけ削除された状態でクラスに配布されたし、当時の担任も何も言ってこなかった。何かあったのかを聞くでもなく、こういうことを作文に書くものじゃないよという指摘でもなく、ただ、なかったことになった。

 

中学校ってこういうところなんや、だれが助けてくれることはないんや。絶望のような諦観を抱えた自分が、リスカもどきや自死にあこがれるまねごとをしても、卒業まで心を折らずに、なんとか死を選ばずに済んだのは、このメッセージを書いてくれた中二の時の担任のおかげだと、今なら思う。
干渉しすぎず、的外れなきれいごとでやりすごすことをせず、見えないところで心を守ってくれていた中二の担任の偉大さを、今思い知る。
当時はわからなかったけれど、今なら痛いほどわかる正しさのひとつでもある。

 

きっとまだ私自身、他人の声や世間の声に流されそうなときはいっぱいあって、それが正しいのか、正しくないのか、その正しいは誰が決めるのか、自己判断でいいのか、だれのための正しさなのか、日々唸りながらなんとか生きているのが現状だ。
正しいの形も、はっきりとはわからずにいる。けど、当時の先生のような選択が取れる大人になりたいと思った。
大片付け、それは過去の傷と向き合いながら、ふとした瞬間に指針がみつかる作業でもある。

日本の未来はWow×4

最近、信号で止まる人が増えた気がする。そら赤信号では止まって然るべきなんだけど、ちゃんと止まる人が増えたように思う。

 

ジョギングしない日の代替手段として、最近は職場から家までの帰路を歩いて帰ることが増えた。およそ1時間10分くらい。電車だと20分ほどで着くけれども、なんせ帰宅ラッシュの人混みも歩きスマホで狭い駅の通路をちんたら歩いている人も嫌いで。そういう人に限ってギリギリ追い抜けそうで追い抜けない真ん中を歩くのなんなんやろ。

大学生のころ、歩き携帯を無差別的に怒り飛ばすじいさんがいた(当時はスマホガラケーの過渡期だった)。

携帯をいじりつつうつむきながら駅前を歩く、覇気のない学生の両肩を真正面からガシッと掴んで、「前見て歩け!!!」と喝を入れるじいさん。そこはかとなく平成を実感する。令和だと9割方アウトだと思うが、男女陰キャ陽キャ関係なく喝を入れていたじいさんには今や好感すらある。あのじいさんに今いてほしい。通勤時間帯の駅とかに。

 

話が逸れた。とにかく今は職場から家までの道を歩いて帰っている。そうすると、大なり小なり信号にぶつかる。もちろん大きい信号は車通りも多く、最近は容赦ないスピードの車も多いので、赤信号で止まらないと死ぬ。

気になるのは小さな信号だ。大股二、三歩あれば対岸にたどりつける横断歩道。細い道なので、車の通りも左折してくる車もほとんどない。

最近そこに、人溜まりがじっと青になるのを待っている。

正しい。正しいのだ。なにも間違っていない。赤信号は止まるべき。

少し前までは、無視して歩く人の方が多かった。車来てないし、人を轢く手段がない非力な歩行者にとっては事故は自己責任でしかなく、命を守るために信号を守っている。倫理的には反しているが、合理的ではあると思っていた。私も小さい赤信号くらいであれば、車やチャリが近づいていないことを確認したうえでスタスタと歩くことが多い。

それが今やなんだ。それがマイノリティで、無視しようものなら後ろめたさがある。本来はそういうものなのに、後ろめたさを感じる状況が、ひねくれた世界で逆になっていた。

 

思春期の頃は小さい信号もスカートの長さも生真面目に守っていたけれど、それは学内でも学外でも嘲笑の対象で、同じ中学生でもない見ず知らずの陽キャから「え、止まってる」「ほんまにキショい」という声が飛んできたりする。ほんまに死んでほしい、とかも。今なら誰やねんお前で済むけど、当時なんかまっさらで心が弱いので普通にトラウマである。
そんなわけで、よくない方向で空気を読み、だれが見るでもだれに見せるでもなく信号を破り、なんかそんな感じの胸を張れない大人になっていった。もう、社会ってそんなもんだと思っていた。

 

違ったようです。

それから20年経とうとしている今、制服を着ている若い子も、だるそうなスウェット姿の姉ちゃんも、サラリーマンも、おっちゃんもおばちゃんも、三歩あるけば向こうに行ける信号をじっと待っている。そうなると私も無視するわけにはいかなくなる。帰路の想定時間が、想像より長くなる。

いや、正しい。正しいねん。保育園の行きかえりの親子連れとか、自分の足で歩けるようになった幼子にも後ろめたさのない、ちゃんと小さい子に見せるべき姿やねん。

でも、自分だけでなくイラチの多い大阪で(偏見です)、20年近く7-8割くらいの人がもっとデカい信号を堂々と無視する姿も見ている中で、小さい信号を待つのも当たり前のような光景が、偶々1回とかではなく、恒常的に、いろんな地点で、いろんな土地でじっと待っている。そのことが嬉しくもあり、戸惑ってもいる。でも、それ以上に希望がでかい。

 

少し前にTwitter(X)で、最近善性の人が増えた気がする、というツイートを見かけた。それは呟いている方が善い生活をしているから、周囲に集まる人が自然と善性の人になるんとちゃうかと思っていたけれど、いや、本当に善性の人が増えているのかも。

善性というか、社会の規範だとか、守るべき、真面目にやるべきところを冷笑せず、きちんと守る人たち。
どうですか、今って、国語の授業での音読を真面目にきれいに読むとか、英語の発音をネイティブに寄せるとか、音楽の授業や校歌を真面目に歌うとか、そういう人たちが笑われない世界に少しでも近づいていますか、なんて、少し期待をしてしまう。

自分がその世界線の学生に戻れるわけではないけれど、勝手に救いを見出したりして。

全ての信号できっちり立ち止まることで取られる時間は、地味にある。塵が積もって、指ですくえるくらいには。でも、これが一時的なものでもなく、これからも恒常的で普遍的な光景であることを願いながら、青信号に切り替わる一歩目をじりじりと待っている。そんな最近の帰路。

 

(私が知らないだけで信号無視罰則強化とかになってただけなら教えてください)

ジョギングからのよい連鎖

ジョギングを始めてもうすぐ2か月になろうとしている。毎日走っていたのが、膝や体の休養のことを考えて隔日ペースになったり、風邪やら生理やらで1週間ブランクが空いたりするときもあるものの、順調に走る距離を延ばせている。妹からは「身長伸びた?」と言われたり(多分、姿勢がよくなった。猫背巻き肩が改善しつつある)、寸胴体形に曲線という変化が加わったり、厚い皮膚に覆われていた胸骨の輪郭がわかるようになってきた。

 

じわじわと良い効果が連鎖している。

走り終えて汗だくになると、頭皮からのにおいが気になる。なんか人工的なにおいがする。

ネットで調べると、頭の正しい洗い方にたどり着く。
人生の30何年、その辺の正しい洗い方だったりは教えてもらうこともなければ横着していたりで自ら調べることもなかったので、今試行錯誤しながら正しいシャンプーを習得している。

髪の毛そのものより頭皮を洗うというのも、わかっているようでよくわかっていなかったけど、ようやくわかった気がする。

そして、正しいシャンプーの方法に則って頭皮を丁寧に洗うと、頭のコリが心なしか和らぐ。普段が頭脳労働なのと、精神的な視野が狭いので、すぐ全身も頭も眼も変な力の入り方をする。そして疲れやすく、休日は横になるしかできないことが多かったけれど、今のところかなり緩和されているように思う。

 

シャンプーのあとは、なるべく早く頭を乾かしましょう、というのも、今まで美容師さんから言われていたものの実行できていなかった。目先のだらだらに気を取られて、風呂上りから2~3時間後、寝る前の時間になってようやく乾かす…というのが常だった。
早く乾かさないと濡れた髪に雑菌が繁殖しますよという忠告は、走った後の頭皮のにおいでようやく痛感したので(髪を乾かす時間が直接影響するかはわからないが)、今は風呂上りのスキンケア後、すぐに髪を乾かすようにしている。

洗面所に常設しているドライヤーを部屋に持ち込んで、動画を見ながら乾かすようにしたら意外と続いている。髪が乾くまで大体10~15分くらい。小顔トレーニングの動画をながらでやってみると案外すぐで、一石二鳥になってきた。
ジョギングの有酸素運動と相まってか、少しずつフェイスラインがシャープになってきたようにも思う。

いいことしかなくない? 

 

度々ダイエットなり姿勢改善なり、髪を乾かす習慣なり、やってみようとしては続かない30何年だったけど、ようやく光明が見えつつある。

あとはこの冬の寒さで、外に出るやる気をなくす可能性もある。経験則的に、急にやめてぱたりと続かないことも多いので、そことの戦いかも。己の敵はいつだって自分…みたいなメディアでよく聞く言葉も、ようやくここにきて自分の身に沁みるのだった。

ひとより遅れていろんなことに気づきがちの人生。のびしろ。